一般財団法人光文文化財団

第25回鶴屋南北戯曲賞選評

谷賢一
撮影/宇壽山貴久子

受賞作:
「未練の幽霊と怪物―『挫波』『敦賀』―」
受賞者:
岡田利規(おかだ としき)
受賞者略歴:

1973年、神奈川県横浜市生まれ、熊本県在住。演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。活動は従来の演劇の概念を覆すとみなされ国内外で注目される。『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞受賞。小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で第2回大江健三郎賞受賞。2016年よりミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品演出を4シーズンにわたって務め、2020年『The Vacuum Cleaner』がドイツの演劇祭Theatertreffenの“注目すべき10作品”に選出。『プラータナー:憑依のポートレート』で第27回読売演劇大賞 選考委員特別賞受賞。2021年戯曲集『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』で第72回読売文学賞 戯曲・シナリオ賞受賞。

受賞の言葉

鶴屋南北戯曲賞

岡田利規

 演劇の上演というのはいつだって同時代的なものです。当たり前です。だって生きている、すなわち同時代の俳優の身体によって演劇は演じられるのだから。そしてある戯曲が初演される場合は、そのテキストもまた同時代のものです。戯曲というのも大抵のテキストがそうであるように、それが書かれた同時代の状況への多かれ少なかれの応答であるだろう、それであればなおさら。
 今回わたしの戯曲「未練の幽霊と怪物―『挫波』『敦賀』―」が鶴屋南北戯曲賞をいただけたのは、昨年2021年の初演を一緒に作り上げたキャスト・スタッフのみなさんのおかげです。このテキスト及びそれを用いて行われた上演が参照した――というよりもほとんど単にパクった――能、というフォーマットがすぐれていること、高い汎用性を備えていることのおかげです。そして、時代状況との呼応具合のおかげでもあると思います。
 同時代的でない演劇の上演というのはあり得ないけれども、戯曲というテキストは時が経てば同時代でなくなります。でもそれは、それが書かれた当時の社会・時代の文脈とは全然異なる文脈の中で全然別の仕方で作用する可能性が備わっているということだとも言えます。あくまでも、可能性ですが。この作品にそのように機能する機会が訪れるのかどうかは、今はまだわかりませんが。

選考委員【選評】(社名50音順)

山口宏子(朝日新聞)

「夢幻能」が描き出した現代の日本

 政策決定の過程が不透明で、徹底した事後検証もなされない。そんな日本社会の宿痾を、岡田利規『未練の幽霊と怪物』は「夢幻能」の形式で鋭く描きだした。五輪、核燃料サイクルという国家プロジェクトの陰で消されたものたちが無念を語る。言葉は平明だが、その連なりは圧倒的な力でイメージを喚起する。それによって観客は、流線形の屋根を持つザハ・ハディドの国立競技場を幻視し、寄る辺ないプルトニウムの悲しみに共振する。みごとな現代劇であり、「能」というフォーマットの豊かさを改めて実感させる戯曲でもあった。
 横山拓也『ジャンガリアン』は、生活感あふれる喜劇の中で「自己と他者」の分断を見つめた。浮かび上がるのは個人の心の中にある「境界線」と、外国出身の人たちの労働に支えられているにもかかわらず、その人権を尊重しないこの国の姿。在日コリアンの登場人物によって物語を一段深めた作劇が巧みだった。古川健『帰還不能点』は、日本がなぜ無謀な戦争に突入したのかを「総力戦研究所」の史実を踏まえて考える。「劇中劇」の仕掛けが効果的だった。

飯塚友子(産経新聞社)

「挫波」「敦賀」とも、夢幻能の枠組みを借りた現代劇である。しかし能の形式を踏まえ、しかもわれわれが生きる社会の問題を、死者の目線も交えて問うた。〝現代能〟の成功例と感じた。
 まず、二作品とも国家的プロジェクトの犠牲者をシテ(主役)に据え、特に「敦賀」は、「核燃料サイクル政策」を擬人化するという突拍子もない発想が、実に斬新だ。これら物語のスケールの大きさが、能という表現形式に合っており、実際の舞台では観客の想像力を刺激し、三間四方の小空間がとんでもない広がりを見せた。
 かつて書籍で能の現代語訳をした岡田利規さんだが、能の詞章のスタイルにとらわれ過ぎず、これまで培った独白文体を貫いているのもいい。脱力系の言葉遣いで、いかにも岡田さんらしい。過去の創作の延長線上に、これら二作がある。
 能は現存する世界最古の演劇といわれる。岡田さんは能に出合い、自身の新境地を開いただけでなく、能という表現形式の強靭さや、新たな可能性も示したのではないか。

中村正子(時事通信社)

 緊急事態宣言下で開催された東京五輪・パラリンピックに象徴される無責任で矛盾に満ちた現代日本。岡田利規さんの「未練の幽霊と怪物―『挫波』『敦賀』―」は、なかったことにされた者(物)がこの世に残した〝未練〟を夢幻能の形式で描いて、その精神性を批判的に提示してみせた。“シテ”は白紙撤回された新国立競技場のデザインを手掛けた女性建築家のザハ・ハディド(「挫波」)と、「夢の原子炉」と期待されながらナトリウム漏れ事故をきっかけに正式稼働することなく廃炉になった高速増殖炉「もんじゅ」(「敦賀」)。もはや記憶のかなたの存在を圧倒的な言葉の力で手繰り寄せた。能舞台を模した四角いステージの周りにはダクソフォンの〝囃子方〟と地謡を担う歌手。能がかりの作品はこれまで幾つも見てきたが、能の基本構造を再確認する面白さがあって音楽的にも視覚的にも印象深かった。
 上田久美子さんの「桜嵐記」は、現代人にはなじみの薄い南北朝時代の武将を題材に、人としての生き方と、宝塚歌劇団月組トップスターの退団を重ねた美しい物語を紡いで座付き作家としての力量を示した。古川健さんの「帰還不能点」も、日米開戦に至る過程を回想劇として見せる演劇ならではの手法が面白く、なぜ日本は無謀な戦争に突き進んでしまったのかという現代にも通じる問い掛けに背筋が伸びる思いがした。

内田洋一(日本経済新聞)

社会の矛盾を撃つ現代能

 廃炉になる高速増殖炉もんじゅを「あの子」と慈しむ波打ち際の女(敦賀)、世論の批判を浴びて葬られた国立競技場プランの設計者ザハ(挫波)。ふたりをシテとする受賞作の二曲は古典の骨法そのままの現代能だが、詞章は宙空を浮遊するような会話体だ。「松風」や「卒都婆小町」の現代語訳で異彩を放った岡田利規さんは、しらじらとした「現代口語」を日本人の意識の古層に連結させ、強靱なものにしたのである。謡曲に刻印される草木国土悉皆成仏の精神性からいえば、打ち捨てられる夢の原子炉や未来型の競技場にも怨念をまとった霊性がある。その魂を慰撫する古典劇の形式が原発政策や五輪騒動の矛盾を撃つ。ドイツで育まれた岡田さんの「現代能」は転じて二〇二一年の日本を象徴する作となった。他の候補作家が地力をつけてきた中でも、一頭地を抜く成果だった。
 この作でザハを演じた森山未來は五輪開会式でも踊った。招致の決め手に利用されたのに廃案にされ、感謝されるはずだった日本人に矢を放たれ、失意のうちに世を去った建築家、その非業の魂を鎮める意味あいがあの身ぶりにあったと思い返している。

内野小百美(報知新聞)

 選考委員の多くが支持した岡田利規さんの「未練の幽霊と怪物―『挫波』『敦賀』―」を、自分は推していない。すでに脚本家として十分、評価されている人だと思うが、理由は二つある。「その年に上演された新作戯曲」という条件はクリアしているが、前年に読売文学賞を受賞している。コロナ禍で昨年、選考会は見送られ、涙をのんだ良作があると思うと、最後まで抵抗を覚えた。もうひとつは受賞戯曲の上演内容が役者の力量と演出によるところ大きいと感じるからだ。名戯曲は中高生が戯曲を読んだだけでも、舞台を見たときと似た感動を喚起させるものだ。その辺りに少なからず疑問を抱いた。
 古川健氏の「帰還不能点」、上田久美子氏の「桜嵐記」の二作を推した。両作とも力作でいまも見た記憶が色あせることはない。古川氏は歴史の転換期で顧みるべき疑問に果敢に挑み続けている。デビュー時より新人離れしていた上田氏は宝塚歌劇団の芝居の可能性をさらに広げた。才能ある両氏を、これからも注視していきたい。

小玉祥子(毎日新聞社)

 岡田利規さんの「未練の幽霊と怪物―『挫波』『敦賀』―」は、建築家ザハ・ハディドがシテの「挫波」と、廃炉となった高速増殖炉もんじゅをシテにした「敦賀」で構成される。夢幻能の枠組みを用い、この世の者ならぬ存在をシテにした着想の妙、ワキや間狂言の効果的な使い方、密度の濃い台詞と、見ても読んでも面白い戯曲であった。
 横山拓也さんの「ジャンガリアン」も優れた作品だ。大阪のとんかつ店という小さな場所から差別問題という大きな題材を照射する。ネズミ駆除に同属他種であるジャンガリアンハムスターを用いることと、モンゴル人留学生を排除しようとする、ごく普通の人々の心の動きが重なり、問題が浮き彫りにされていく。台詞も軽快で無駄がなかった。
 古川健さんの「帰還不能点」、上田久美子さんの「桜嵐記」、内藤裕子さんの「灯に佇む」も、それぞれに才気あふれる作者による挑戦的な作品であった。

祐成秀樹(読売新聞社)

 今回の選考では、「未練の幽霊と怪物」がモンスターであり過ぎたと思います。
 何より独創的でした。夢幻能の形式を使う創作で、ザハ・ハディドと核燃料サイクル政策の亡霊を後シテに据える発想ができる人って、岡田利規さんのほかにいるのでしょうか? そして、政官財への痛烈な批判を、シテの無念さに変換したので、メッセージが突出せず、心にしみました。
 それは、言葉がとぎすまされていたからです。「カーブの多い海沿いの道」で始まる「敦賀」。ワキの声に耳を傾けるうちに、うら寂しい海岸にもんじゅの建屋がそびえ立つ異様な情景が脳裏に浮かびました。
「挫波」では、国立競技場が上空からはゼロに見えることに着目。「ザハのデザインがゼロに、ゼロ・ベースにされたことを忘れられないため」とつづったのです。その結果、私は五輪中継で国立競技場が空撮される度に、ザハの無念さを思い出しました。
 ドタバタ続きの五輪への日本人の憤りが戯曲と響き合い、二〇二一年を象徴する作品になりました。また、長い独白にこだわって作劇してきた岡田さんの到達点とも言えるでしょう。

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